いつもありがとうございます。ご報告です。
2月から、このFashionFlightのビジネス版が、繊研新聞の連載コラムとして載る事が決まりました!!!!!
わーい!!!!
自分の好きな事ばかり書いているので、
推薦しておくね!といわれたときも
ぜひ!といいつつ、「恐らく無理では。。??」と思ってました。
だから、本当に掲載が決まったと聞いて驚いてます。
誤字脱字に気をつけて(切実)書いて行こうと思います。
大学を卒業する直前の3月、電車の中で繊研新聞を読んでいる人がいて、
「あれを読む社会人になりたい」と直感的に思ったのです。
入社したらホントに会社においてあり、ファッションをおじさま目線(つまりビジネス目線)で書いてあるその文体が新鮮びっくりおもろーだった。
部署で読むのは必須ではなかったし、貿易の部署になってからは直接は関係なかったけれど、前の部署からわざわざ取り寄せて1日遅れで読んでいました。
で、週末も原稿書いてたんだけれどね。
わたし元々600字くらいのところが、私の書きたい事が多すぎて1000字になることが決定しました。
だって色々あるんです、書きたい事。
新卒で入社してからの3年間、縫製工場のコンサルティングをしておりました。
それってね、ファッション業界で言うとかなり川上工程で、しかも私は工業ミシンの会社だったから、業界といえるのかも微妙なところね。
それはそれは地味ーな世界です。
でも、そこで受けた衝撃って言うのは測り知れなかった。
多くの女の子がそうであるように、私にとって服というのはルミネでハンガーに下がっているところが始まりだったのです。
そこにたどり着くまでに何百人の人の手を渡り、何百工程を辿って来ているなど、考えた事もなかった。
工場に行くのは、最初怖かった。全然自分と違うところにいくみたいで。
でも、行った先に居たのは同じ年くらいの二十代前半の女の子達。
全く怖いところじゃなかったけれど、たくさんの衝撃があった。
それから世界中を出張や旅行で旅することになって、
日本のアパレルって言われる程世界に出てないなと気づいた。
だってどこにいっても中国の店と韓国の店ばかりで、東南アジアでも米国でも欧州でも
日本デザイナーや日本アパレルの服は殆ど見かけなかった。
日本に帰る度に日本人ってこんなにお洒落に気を使うのに
なぜそれを上手くアピールできないんだろう、と思っていました。
また、海外へいくと現地の人の目線になるべく近いところで
生活したいというのが私の信条。
その国ではどんな人がモテるのか、何がかっこいい生き方なのかを探ると、
結構ファッションと関係してたりする。
ストリートスナップだけでなく、その背景にある裏側の文化も書いて来たつもり。
ブログで書いて来たことを元に、字数制限のある新聞に選び、まとめ、生み直す作業は、
「自分の軸」を洗い直す作業にもなりました。
このブログが新聞記事になる!と連絡を受け、真っ先に電話をかけた人がいます。
それは、Y先生。交換留学前に英語論文の書き方を習った方です。大学で教えてたけれど、起業して社長をやっている方でもあります。
いつも人生で困ったことがあると適切なアドバイスをくれる、わたしのメンター的な存在。
去年仕事を辞めた私が右往左往しているときに、先生はこう言ってくれたのです。
「このブログには好きなことを書いているんでしょう?
それならば、しっかり書け。それが、Amiの顔になるから。
時には調べたり、時間がかかってめんどくさい事もある。でも顔だと思って、集中してかけ。」
そのときわたしはまだ、キャリアコンサルタントにお勧めされた企業の面接が残っていました。
どこかやりたい事と違っても、フリーに生きていく自信はなかったので、受けていました。
でも先生は「面接は受けなくていい。このブログ一本でいけ」というのです。
私は最初、そんなの無理だと思った。だってそもそもお金にならない。
でも、やりたいことがはっきりしている私は受かった企業もどこも満足できず、結局内定を貰っては辞退を繰り返した。
面接をしてくださった方に申し訳なく、意味のない事をした自分に落ち込んでいた。
だから、先生の言う通りきちんと書く事にした。
日本文化、日本ファッションが外に出て行くにはどうしたら良いかを真剣に考えつつきちんと本を数冊読んで調べて書いた。
数ヶ月経った後、結論から言えば先生の言う通りになった。
人生は上手く行く事ばかりではないけれど