まずはこれ!テンションあがらない訳がな−い!どこでもドアー☆ |
伝説のきれいなジャイアン。に絡むひと(笑) |
こうゆう土管って、70年代の日本には沢山あったみたい。 |
館内は撮影禁止のところも多かったので、これはホンノ一部!
藤子先生の暖かい気持ちが至る所に伝わるように出来てた。
「僕は、のび太でした」
そう言う先生は一人っ子で大事に育てられたからか競争が苦手で、
いつも端っこで空想をしているような男の子だったんだって。
(館内では常に藤子F不二雄さんを”先生”と呼んでいるからわたしもそう呼んじゃう)
故郷の富山県高山市で、後に藤子不二雄Aとなる安孫子先生と出会ったという。
そのとき、2人は小学5年生!すごくない?
ペアを組んで沢山の作品を発表するとはね。出会いはいつあるかわからないね。
Wikipediaで調べてみたら、
締切りが近いのに新連載の構想が浮かばないという切迫した状況にも関わらず、アイディアがすぐに思い浮かぶような便利な機械があったらいいのに、と考えながら空想にふけって、どら猫の蚤取りをしていて、その後焦って転んだときに思いついたのがドラえもん、なんだって!
ほんと、のびたそのもの(笑)!!
驚いたのは、藤子F不二雄先生の書斎なのだけれど、
恐竜の本、映画本、辞典などものすごい量の書籍!!!
ドラえもんでは恐竜が多かったけれど、あれは一つ一つ恐竜の特徴を調べて描いていたんだって。
植物も、全部細部まで調べて細かく描いていたらしい。
子供向けだからって馬鹿にするのじゃなくて、子供向けだからこそ、こうやって一つ一つの事実を大事にしていたんだって。
インターネットのない時代だよ?すごい。
ピー助〜! |
あと、やっぱり海外展開もかなり早い。
1970年に連載が始まり、その後十年のうちに
アジアだけでなく中南米に回っているとのこと。早い!
そういえば、フランス人の友達に「おとぎの国みたいな街!羨ましい」といったら
「わたしはドラえもんの世界に住んでるあなたの方がよっぽど羨ましい」と真顔で言われて心底驚いたことを思い出す。
先生は空想好きなのび太だったからこそ、こんな色んな発想力があるんだと思うけれど、
そこには戦争に反対する強い心があり、
また環境汚染に関する強い危機感がある。
ドラえもんを見て育った私たち日本人は、その意識がきっと植え付けられてる。
それってすごく誇れるんじゃないかと思った。
毎週見るだけではなくて、夏休みはいつも映画に連れてってもらっていたドラえもん。
でもそれより
ミュージアムにいて何度もフラッシュバックしていたシーンは、
社会人3年目、中国奥地での出張先でのこと。
青島から新幹線で4時間、そこからバスで8時間、さらにタクシーで1時間くらい行った場所。
アパレル工場の女の子には「初めて外国人に会った」、といわれたの。
そこでのコンサル1週間はやはり、ものすごく大変だった。
もう課長はいなくて独り立ちしていたから、頼れる人は誰もいない。
一人で問題を見つけて改善し、結果を残さなくてはならないプレッシャー。
ホテルでさえもホッとできない場所だった。
どうにか生産性をあげて、社長へプレゼン。
終わってタクシーに乗り込んだ時、そのタクシーの運転手のハンドルカバーの中心には、ドラえもんの顔があった。
あんなにほっとした事はない。
あのお客さんがなんて言ってくれたのかは、正直忘れた。でもタクシーに乗り込んだ瞬間のそのシーンだけは、くっきり覚えてる。
出張は大抵2−3週間だったから、それで日本に帰るってことはなかったけれども
とりあえず「青島へ帰れる!」と思って、そこで緊張の息が切れた。
と思って、帰りの新幹線で寝ようとしたら中国人が爆音(下品な表現だけどホント!)でドラえもん見てた(笑)。
乗り物では大音量で音楽なりドラマを見るのが当たり前の中国。
でも、ドラえもんだったから許s。
ちなみに、パーマンもいるよ!おばけのQ太郎もいるよ!
(プレ父の日にQちゃんのコップを買って実家に帰ったら、驚く程喜んで、その晩Qちゃんソングを口ずさんで終始ご機嫌だった。私たち世代にとってのドラえもん?!)
それではもう少々、
完璧に童心に帰った大人(平均年齢オーバー30!!笑)を、ご笑覧ください^^
ああ気分はのび太! |
帰りのバスもどらえもん |